じゃのめ見聞録 No.58 | ||
新島七五三太の「土人」の表記について |
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2005.7.1 新島七五三太が19歳の時に、洋式帆船「快風丸」に便乗し、江戸から玉島(現在の倉敷市)に航海したことは周知のとおりである。実際には文久二年(18629の11月12日に乗船し、翌年の1月14日に江戸に帰っている。ほぼ二ヶ月の旅であった。江戸と倉敷の間を往復するのに、二ヶ月を要したこの旅が、若き新島七五三太に決定的な役割を果たしたことは、いくら強調してもしすぎることはないだろう。 ところで、この重要な「玉島への航海」という「事実」を、私が今までどのようにして知っていたのかというと、それは「伝記」を通してのことであった。「伝記」にそう書いてあったから、私もこの「航海」を「重要」な旅だと考えていた。そしてその「伝記」の元になっていたのは、新島自身が書き残している「私の青春時代」という手記によるものであることは言うまでもない。 しかし、ある時にこの「玉島への初航海」の日誌が残されていることを知った。『新島襄全集5巻』に「玉島兵庫紀行」と題された日誌がそれである。実際には江戸を出航した後の、12月1日から14日までの二週間分しか残されていない日誌であったが、これは実に興味深い日誌であった。多くの「伝記」で書かれている「重要な旅」であったとのとは少し違った意味で、この日誌が重要な意味を持っていることに私はふと気がついた。その中のいくつかを紹介したいのだが、今回はこの日誌のまさに書き始めの数行だけに目をとめてみたい。その書き始めはこんな風になっていた。 此日備中玉島に至る可に、潮悪しく風逆にして何分舟を進め難故、午後二時三十分に備前の霜露(下津井のこと)と申港に入りしに、土人未西洋船を見さる故か、男女如雲端舟に乗り拝見せんを請へり。 倉敷の下津井港に入港したときに、そこの住民がこんな西洋帆船を見たことがないので、見せてくれと押しかけてきたことを書いている下りである。この後に男女3百か4百人はやってきたのでしかたなく甲板だけに乗せて見学をさせたことが書かれている。もちろん、「玉島兵庫紀行」の原文は、早くから新島襄の研究者たちには周知の文献であったし、この下りも多くの「伝記」で紹介されているところであったのだが、私は「原文」を読むまでは、ここに「土人未西洋船を見さる故か」と書かれていることを知らなかった。私が今まで読んできた新島襄の「伝記」で、ここに「土人」と書いてあると「説明」してくれているものを読んだことがなかったので、はっと思ってしまったのである。 ここで表記される「土人」とは、倉敷の一般の人々のことであろうと思われる。「その土地の民」を「土人」と呼ぶことは『広辞苑五版』にも「説明」されているから、たぶん新島は、そういう意味で倉敷の土地の人を「土人」と表記したのかもしれない。ただ、実際はどういう意味で新島がこの「土人」という言葉をここで使ったのは、今の私にはよくわからないのである。事実、「玉島兵庫紀行」の最後にまた「土人」という表記が二カ所出てくる。 私は、この表記に出会って、江戸から明治にかけての知識人の間で「土人」という表記がどれくらい一般的に使われていたのか、知りたいと思うようになっていった。新島はその後、函館から日本を脱出するのだが、その航海でつけていた「航海日誌」でも、「土人」という表記を再三使っている。「土人此斉根川(サイゴン川)に毒を流し」というふうに。 私自身は、子どもの頃、手塚治虫の『ジャングル大帝』を読んでいて、そこで黒人を「土人」と表記しているのを読んでいて、「土人」というのがいるのだとずっと思っていたことがあった。そういう自分の意識と照らし合わす意味で、この新島の「土人」表記の持つ位置を調べられたらと思う。 私が今少し想像しうるのは、この「土人」の表記は「快風丸」という帆船に乗ったことと深く関係しているのではないかということである。そもそもこの船がいかなる目的で備中松山藩によって購入したのかもまだ明らかにされていないところがある。新島は後日、同じ「快風丸」に乗って「函館」へ行き、それが日本脱出の大きな糸口を作るのであるが、なぜ「快風丸」は函館へ行くのかも、歴史の中で問題になるようでいて、問題にはされてこなかったと私は思う。「快風丸」は実は「蝦夷」と深く交わった船だったのである。この蝦夷に「北海道旧土人保護法」が制定されるのは明治三十二年であった。 同志社女子大学HP「時事コラム7月」2005.7 |